2008/07
社会インフラ ―水―君川 治


神田上水掛樋跡
羽村取水堰
羽村上水公園の玉川兄弟の像
 前回は道路の起点や地図の原点について述べたが、今年5月の中国の四川大地震や先月の岩手・宮城内陸地震は、地図を書き直さねばならないような大きな地殻変動と被害をもたらしている。中越沖地震からほぼ1年を経過するが、震源地に近い東京電力柏崎・刈羽原子力発電所は大きな被害を受けて未だ再開の目途がたっていない。地震では停電、断水、道路が寸断され、通常の生活が出来ないような被害を受ける。
 昔からの社会インフラは上下水道と道路であったが、技術と社会の進展によりインフラの内容が変化してきた。現在は電気・ガス・水道が最も基本となるインフラであり、更には通信・放送などの情報と鉄道・航空などの交通も基本的なインフラであろう。
 東京・江戸の水道は徳川家康に始まる。家康が江戸に入府するのは幕府開府に先立つ1590年、小田原北条を亡ぼした秀吉により移封された。当時の江戸は、江戸城の大手門近くまで日比谷の入り江であり、井戸を掘っても塩水が出るような水事情の悪い土地であった。徳川家康の最初の課題は、江戸の町づくりと上水道の開発であったと言われている。江戸の最初の上水道は小石川上水と溜池上水と言われているが詳細は判っておらず、3代将軍家光の時に神田上水が開発された。神田川は井の頭公園から流れ出して、善福寺川や妙正寺川を合わせて隅田川に流れ込むが、この川の水を関口村付近で取水して小石川の水戸藩邸や江戸城まで給水したのが1629年である。上水道の樋が神田川を渡ったのが現在の水道橋の名前の由来である。JR水道橋駅近くの神田川沿いに「神田上水掛樋跡」の碑がある。
 神田川の文京区江戸川公園は桜の名所であり、公園の中ほどに取水堰跡がある。近くに芭蕉庵があるが、松尾芭蕉が神田川の工事に係わったという説明碑もある。文京区関口町の名は現在も残っており、この隣が水道町である。
 3代将軍徳川家光は拡大する江戸の街の水事情を改善するために大規模な上水工事を企画したのが玉川上水である。この玉川上水は現在も一部はその機能を保持している。
 4月のある日、多摩川の上流、羽村取水堰を訪ねた。取水堰上水公園は桜が満開で、お花見の人達で賑わっており屋台の出店まであった。玉川上水路は桜の散歩道である。
 玉川上水は羽村取水堰から四谷大木戸まで総延長約43kmで、玉川兄弟が提出した企画書が採用された民間請負工事である。しかし土地の確保から工事人夫の調達まで大掛かりな大工事であり、総奉行は老中松平伊豆守信綱、水道奉行伊奈半十郎忠治が指揮を執った幕府直轄工事である。この上水工事で凄いのは、着工から僅か8ヶ月で完成させた工事力と、羽村から四谷までの標高差が僅か92mの緩やかな勾配の水路を作った技術力であろう。
 多摩川は羽村より下流へ京王多摩川、二子玉川、丸子多摩川を経て東京湾に注いでいるのに何故遠くの羽村から取水したのだろうか?当時の上水道は落差を利用した自然流水であるから、下流域からの勾配の緩やかな多摩川では下流域からの取水が難しかったと考えられる。多摩川は羽村で逆「く」の字に曲がっており、ここに堰を作れば流れは取水口の方に変わるのは素人にも分かる。自然の利を活かした素晴らしい設計だ。玉川上水が完成したのは1653年であり、今から350年以上前である。この上水は明治34年(1901)に近代水道が出来るまで約250年間使用されたので、その間に拡張(拡幅)や改良がなされているが、基本的には当時の同じルートが残っている。
 羽村上水公園には玉川兄弟の碑が建っている。松平信綱や伊奈忠治でなく実の担当者であるのが嬉しい。御茶ノ水の東京都水道歴史館に行くと、江戸時代の水道技術、水を導水する石樋や木樋、樋と樋の継ぎ手や方向変換の方法、障害物を避けるサイフォン構造など、結構技術レベルが高かったことを伺わせる展示がある。歴史館裏庭は水道公園となっており神田上水の発掘された遺跡が実物展示してある。
 明治維新で日本は鉄道、道路、通信などの社会インフラの整備や鉄鋼、造船、製糸工場、製紙工場などの産業を急テンポで育成するが、何故か水道の整備は遅々として進まない。東京に鉄管を使用した有圧式の近代水道が完成したのは明治34年である。水道施設推進役の技術者中島鋭治については機会あれば調べてみたい。


君川 治
1937年生まれ。2003年に電機会社サラリーマンを卒業。技術士(電気・電子部門)




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